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【太田和彦の居酒屋ひとりカウンター】
2006年1月10日 掲載
創業70年、鮮魚店の自信と良心値段

味処肴や(世田谷)

 三軒茶屋からチンチン電車の世田谷線で三つ目。松陰神社前におすすめ居酒屋あり。といっても外からはわかりにくく、商店街に面した魚屋「大丸鮮魚」の店の奥が居酒屋だ。しかし決して小売りの片手間ではなく、カウンター、小上がりのある本格。魚は創業七十年になるだけにプロ中のプロ。毎朝一番に仕入れてくる鮮魚を店で売り、奥で食べさせる。昼は小売り&定食、夜は居酒屋と働き者一家の店だ。
 カウンターに座り、さあ何にしようかなと思案していると、おお、今茹(ゆ)であがったばかりの巨大なタラバ蟹が、太い脚を折りたたみ盛大に湯気をあげ、でんとカウンターに置かれた。鮮やかな紅白の殻に黒のトゲトゲが鋭く散らばり、その迫力に思わず立ち上がる。
「見事ですねえ」
「身もみっしりですよ。脚二本で二千五百円くらい。どうぞ食べてみてください」
 ご主人は二・七キロの大物に自信ありげだ。これは頼まないわけにはゆかない。しかし当方はひとりだ。
「一本でもいいですか」
「ああどうぞ」
 届いた脚は切り分けられ、皿にのると一層大きく見える。タラバ蟹は身を取りだしやすく、殻からきれいに抜けたのをがぶり。まだ温かい蟹のうまいことよ。殻の内側のチーズみたいな白いところがまた最高の珍味。ひと口食べては酒を、また蟹を。最後は料理鋏(りょうりばさみ)を借りて殻を切り開き、爪の先まで食べ尽した。
 ふう、ぜいたくぜいたく。一本で十分だ。ご主人と目が合いうなずくと「でしょう」と満足げだ。
 魚を食べさせる居酒屋は酒がおろそかになりがちだが、ここは天狗舞、一ノ蔵、北洋と手堅い銘柄がそろい、私は春鹿のお燗(かん)だ。
 客は中老年夫婦、小さな子供を連れた若夫婦、四人ほどのグループなど、気楽な格好は近所の人ばかりらしく、もの慣れて、皆ここの魚の実力と良心値段を知っているのだろう。
 蟹に気をとられていたが壁の品書は〈本日のおすすめ〉〈本日の特におすすめ〉と書き分けられ、日本海天然ブリ、活車えび、三陸牡蠣(かき)などすべて値段明記で並び本業の自信をみせる。〈特におすすめ〉の「焼白子」は昆布を敷いたホイル焼きを紅葉おろしにポン酢で、これまた酒がすすんで困る。敷いた昆布まで食べてしまった。
 カウンター上に並ぶタラコ煮、タケノコ煮、こんにゃく煮、きぬかつぎなどの大皿から選んだ、甘酢漬けの白いカブは黄色鮮やかな柚子(ゆず)皮がたくさん入り、箸(はし)休めに格好だ。カブは世田谷のべったら市、正月あけはボロ市もある。
「寒いねえ」「風がなきゃいいんだが」「今日は富士がよく見えたよ」聞えてくる会話から、世田谷の土地柄が見える。品書の自家製味噌が、これまた昔は農業の地だった世田谷らしく、その銀ムツ味噌漬はここの人気ナンバーワンなのだそうだ。味噌好きの私はカウンターのミニ大根を生味噌でとお願いした。大根といえば世田谷・東京農大の大根祭だ。
 カプリ。味噌は甘からず辛からず、中庸のうまさ。「葉っぱも食べてね」と言われた葉っぱがうまい。
 盛り場にあるばかりが居酒屋ではない。地元のさりげない商店街に、働き者一家の誠実な仕事、心温かさを感じた。
●たらば蟹(2本)2500円、春鹿1合550円

■味処肴や 世田谷区若林3―17―9 (電話)03・3419・7800

◆太田和彦 グラフィックデザイナー。東北芸術工科大学教授。本業のかたわら居酒屋の著作多数。本連載を含む「ひとりで、居酒屋の旅へ」(晶文社)1月下旬刊行予定。



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